カール・ポパー(1974)(森博訳)「バケツとサーチライト−−二つの知識理論」『客観的知識』木鐸社

カール・ポパー「バケツとサーチライト」の簡単な紹介です。科学史に基づいた説明もありますが、やや合理的再構成のようになっているので、大幅に省略します。

まず、著者は科学のバケツ理論というものを導入します。それは「出発点は、世界について何事かを知ったり言ったりできるためには、それ以前にわれわれはまず知覚−−感覚的経験をしなければならない」というものです。しかし彼は「科学においては、決定的な役割を演じるのは知覚よりも観察である」とし、その見解を不十分なものと批判します。さらに観察について敷衍し、「観察には、つねに特殊な関心、問い、問題−−簡単にいうと、理論的なあるもの−−が先行する」と、観察に先立つ「理論」というものがあることに触れます。

ここで科学のサーチライト理論が紹介されます。すなわち「科学がみずからに設定する仮題[つまり世界の説明]および科学が用いる主要観念は、何らの断絶もなく前科学的神話作りから継承される」が「科学における新しいもの、科学に特徴的なものをつくりあげているのは、批判の伝統である」と理論を観察に基づいた批判によって書き換えていくことが科学の営みであり、それが科学のサーチライト理論だと主張します。それは古代ギリシア以来のものであり、アリストテレスのエピステーメの教説による中断(これ、本当ですかね?)をはさみながらも現代にいたるまで続くとされます。

最後に「科学者の目的は絶対的確定性を発見することでなく、よりいっそう厳格なテストにさらすことのできる[そしてそれによってわれわれを新しい経験に導き、われわれのためにに絶えず新しい経験を照し出す]より良き理論を発見すること[あるいは、よりいっそう強力なサーチライトを発明すること]である」と結んでいます。




私の感想としては、個人が学問を学ぶに際してはどのようにこの知見があてはまるかというものがあります。著者の主張にはそぐいませんが、バケツにもある程度の重要性があるように思われます。すなわち、学問を学びたてのころにサーチライト的な仮説をつくるためにはある程度長時間、バケツ理論にあるように、知識を「知覚」しなければならないでしょう。しかし、そうやってバケツで知識を組んでいるだけでは有効な仮説はたてられません。バケツ→サーチライト→サーチライト→・・・しかし、学習・研究が進んだ段階ではバケツ的な学習は必要ないのでしょうか?周囲を見渡せばしている人もいればいない人もいます。私はどちらでしょうね?