「『曖昧で人工的』:歴史的に捉えにくい純粋/応用科学の区別」 Graeme Gooday, "'Vague and Artificial': The Historically Elusive Distinction between Pure and Applied Science,"

「『曖昧で人工的』:歴史的に捉えにくい純粋/応用科学の区別」 Graeme Gooday, "'Vague and Artificial': The Historically Elusive Distinction between Pure and Applied Science," 546–554.
http://www.jstor.org/stable/10.1086/667978

研究会用に、Isis最新号「応用科学」特集から一本論文をまとめました。

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応用科学という用語にはさまざまな解釈や神話的言説が現代においては付与されている。当論文はそれらの言説がどのように形成されたかという問題意識のもとに、ビクトリア朝時代から第一次世界大戦時までの英国において、応用科学という用語が実際はどのように用いられてきたか、どのように多様な意味を付与されてきたかを検討するものである。応用科学はビクトリア朝時代においては必ずしも先行する純粋科学を必要とするものとしてはみなされておらず、ある解釈者によれば自律的な、実用に携わる知識とみなされていたとされる。その自律的な知識は、電話技術の発展に伴い精力を拡大していく。このことはアカデミアにおける実験室純粋科学の発展を脅かすものであると大学教授たちは危機感を覚え、さまざまな「純粋科学のための」運動を展開する。ハクスリーによる、「応用科学は純粋科学を特定の問題に応用したものに過ぎない」という歴史捏造が代表的なものである。「技術は応用科学にすぎない」というドクサを乗り越えようとする技術史家たちもその多くは捏造の後に形成された二十世紀型の応用科学の意味内容にとらわれているのである。「応用科学とは何かという問いに答えるには、応用科学の史実性に迫る必要がある」というジェームズ・マクレランの指摘が正鵠を得ているゆえんである。

1870年にアレクサンダー・ウィリアムソンがユニバーシティ・カレッジに着任した際に「純粋科学のための嘆願」と題した講演を行った。そのことの背景には、同年に自由党政権が国家による教育のサポート政策を打ち出したことに伴い、純粋科学のロビイストたちがその政策立案に食い込み、教育課程に科学の専門知識を役立たせようとしたことがある。「科学のための嘆願」では純粋科学も応用科学も長期的にみれば実益をもたらす点では差異がないが、応用科学は実利そのものを目指すのに対し、純粋科学はそうではない点が異なるとされた。その発言の真意には、応用科学が結果を出すのはあくまでも純粋科学の後追いでありそれは二次的な知識に過ぎない、もっぱらアカデミアの施設で執り行われる純粋科学にまずは投資するべきだというところにあった。

純粋科学によらない技術事業の台頭がエジソンによる電信技術などによって引き起こされたことは、「嘆願」講演の趣旨を13年後に引き継いだ、ヘンリー・ローワードによる、科学推進のためのアメリカ協会での講演をさせしめる契機となった。エジソンの自律的な技術事業は、勃興しつつあったアカデミア実験科学帝国の支配を超えていたのである。その当時は電話の技術は応用科学とみなされたいた。フィリップ・レイスやアントニオ・メウッチ、エリーシャ・グレイやアレクサンダー・グラハム・ベルはいかなる意味でもアンドレ=マリ・アンペールやマイケル・フライデーやジョセフ・ヘンリーの公刊された著作から何かを引き出していたわけではない。応用科学という用語はずっとあった工業的な営みや人工物生産のことを指し、それは制度化された科学からは殆ど引き出していなかった。ローワードや純粋科学のロビイストたちにはそれは都合が悪かったのである。

自律する応用科学へ対抗した、代表的な純粋科学のロビイストトマス・ヘンリー・ハクスリーである。彼の主張は1880年の小論文「文化としての科学」に代表される。そこでは科学は首尾一貫した、制度化されている知識として教えるべきであり、実用性に妥協してはならないとされた。1851年の水晶宮展覧会以降その当時に至るまで、産業界はイギリスの産業の完全さを主張し、科学の助けは必要ないとしていた。ハクスリーはその考えに憤慨し、アカデミアにおける科学の実験室化によってそれは脅かされるであろうとした。そして応用科学は実践的な価値を自律的に生産し、実用性を持たない純粋科学からは離れているという考え方に反対した。さらに「応用科学は純粋科学を特定の問題に応用したものに過ぎない」と歴史を捏造したのである。

このハクスリーの主張は、国家の資金分配は産業への応用がある科学を優先するべきという主張の論拠として、彼の真意を離れたところで援用される。第一次世界大戦中に英国は、ドイツ軍の科学兵器によって袋小路に陥いり、科学への資金提供への要求が見直されることとなった。そして、DSIR(科学的産業・研究部門)が1916年に設立される。DSIRの初年度の年次報告書では、応用科学は純粋科学から独立はしておらず、二つの科学はないとハクスリーのドグマを解釈したが、その融合した科学は現在そして未来の産業界の要求に従うべきだとの主張がある。

このことはアカデミアに属する科学者たちに危機感を覚えさせた。ケンブリッジ大学の科学教授たちは合同で『科学と国家』を上梓し、戦後の純粋科学の危機を訴えた。編纂者であったアルバート・チャールズ・スアードによれば、戦後の改革や復興の計画は異常な状況なもと急いで決定され、バランスもとれていない。ケンブリッジのような古い大学の世俗から離れた伝統は崩れ、役に立つ科学を強要されるとのことである。そのことの背景としては、純粋科学に関しては得難い重要性があり、それがわかる実例が大量に科学史のなかにはあるとした。その主張は、あたかも純粋科学が過去の英国の産業を発達させ、人種の改良にも役立ったことを意味しているとも解釈できる。ほかの物理科学に関する章の執筆者たちも物理学が純粋なディシプリンとして最高位にあり、他の応用科学はそこから中身や厳密さを引き出すと主張した。

しかし『科学と国家』の他の寄稿者はこのスアードの方向性に必ずしも従っていたわけではない。それどころか、植物の品種改良や、文化人類学という対応・先行する純粋科学をもたない応用科学に関する記述さえもがああり、純粋科学・物理化学至上主義の妥当性を読者は読み取れなかった。その雑種性はハーバード・ジョージ・ウェルズによっても批判される。かれはこの本は編纂作業が殆どなされておらず、本全体の目標とされる純粋科学の推進はたった数人の寄稿者のみが言及しており、さらには具体的に教育や産業に貢献する計画は全くないと断じた。

序論は電気科学の研究者で、学会の権威であったロード・ムルトンによるものであったが、それは『科学と国家』のメインテーマを破壊しかねないものであり、明らかにウェルズの批判を援護した。ムルトンはこの本を英国での科学への関心を高める上でこの上なく重要であるとした上で、純粋科学も将来的に応用されるのであれば、純粋/応用という区別は不要であるとした。そしてこの区別は大衆のことなど気にかけず、難解な研究に没頭する科学者や、科学の未来を思いつめる学会のドンの過剰な心配によるものとした。この主張は科学技術の応用についてプラグマティックな関心を持つことは、将来の純粋科学の独立を阻害するというメインテーマを破壊しうるものでもあった。

純粋科学にまつわる、応用科学初期の一つに融合した様態を控えめにしか扱わない神話が、20世紀中葉の英国においてどのように形成されたかについては、今後の研究を待つとされている。