伊東『近代科学の源流』

久しぶりに読み返しました。「これぐらいは知っていますよね、でもですね、実はこの人は・・・」といった、「にこやかに恐ろしいことを言う」スタイルの啓蒙書です。んー、でも昔の大学生は高校の時にいろいろ詰め込まれていたからこの本で前提とされているような事項は知っていたのかなあ?何はともあれ、科哲に来るまで西洋史の知識がほとんどなかった私は、初読では「実は・・・」の方だけぼんやりと頭に入っていたようでした。たとえばのはなしですが、「古代ギリシア世界とヨーロッパ世界との関係、前者の知が後者にどのように流入しましたか」と科学史の授業の後に問われれば、図式的に「ギリシア―アラビア―中世ラテンじゃよ」と答えることと思います。僕も伊東本を再読するまで単純にそう考えていました。勿論それは、その素朴な問いかけに対しては正しい答えとなっています、ですが、もう一歩先に進んでみましょう、もしくは時代を遡ってみましょう。さて、二十世紀初頭に同じ問いが投げかけられたら、当時の知識人はどのように答えたでしょうか?

おそらくは「古代の知識がルネサンスで甦ったんですよ」という風に答えるのではないでしょうか?それは現代的には誤りです、しかしヨーロッパ人はそう考えたかった(アジア経由でギリシアの知が入ってくるなんて考えたくもない?)、いやむしろ本気でそう考えていたし、現代的な答えを浴びせられたら「何言うとンね」と答えることでしょう。だって不自然じゃないですか?わざわざアラビア経由で入ってくるなんて自然には思いつきませんよね。どれぐらいの時間をかけてそのドグサが覆ったのかは分かりませんし、そもそも最初からこの図式が臆見であると、批判対象になっていたとも思えません。地道な中世ラテン科学・アラビア科学研究がいつしか新しい構図を提供して、気づいたらひっくり返ったのではないでしょうか?ポイント・オブ・ノーリターンがこのような「現代的入門書=旧い常識を定式化し、批判する書」の刊行によって歴史に刻まれるとは思いますが、はっきりとはわかりません。ひっくり返ったと考えること自体が見誤りなのかもしれませんし。

いずれにせよ、多くの「常識への問いかけ」に満ちている本だと思います。我々の世代は「否定された常識」の前に「批判の結果得られた知見=現代の常識」を先に学ぶわけです。『近代科学の源流』のような古典的入門書というのは現代の常識が作られたダイナミズムに満ちているように思われます。僕はほとんど固有名詞が分からず(でも初読時よりかは分かりました。さすがに)、そのダイナミズムだけを楽しみました。ほとんど注釈がないですし、第一線に立っておられる方からすれば、三十年前の本だし・・・ということもあるのかも知れません。「楽しんで」「乗り越える」本なのでしょうか?

僕は何はともあれ楽しみました。自分が多少なりとも知っている科学革命から逆流して中世ラテン→アラビア→・・・という順番で。もともと雑誌連載であったということもあり、各章は独立して読めると思います。